宮本百合子(青空文庫)

 作者が添えた手紙でことわっている通り、まだ稚い作品ではあるけれどもリアリスティックな文学の筋の上に立っている。習作ではあるが『大衆クラブ』などにのせれば同感をもってよむひとは少くないだろうと思った。
 作者の心持が稚くても、ふっくりとしていて、描かれている農村の生活の細目も自然にうけとれた。ただし、主人公の青年の父親が、農民の生活を不安にする現実から、段々民主的な働きに目を向けて来てやがて積極的になってからのところが、割合安易にかけてしまった。アカハタをよみはじめ、黙って考えをかえてゆくあたりは、さもあろうと肯けるが、積極的になってから、あの父親は言葉まで急に若がえりすぎてしまってはいまいか。妹娘が兄のかくしておいたハタを紙型用にもち出して同級生に、とやかくいわれる場面はおもしろい。しかし、あとでアカハタが村へもっと入るようになってほかの娘も紙型用に学校へもって来るというところは、どうだろうか。何となし読んで、ひっかかった。アカハタがそれほど村に入れば、アカハタを大事にとっておくという心持も、それだけ村にひろがって行っているのが自然だろうのにと思った。稚いといっても小説は地味に大体このような組立てで書かれていってよいものだと思う。

 若い娘の命をとる事もまっしろな張のある体をめちゃめちゃにする事でも平気なかおでやってのける力をもった刀でさえ錦の袋に入った大店の御娘子と云うなよやかな袋に包まれて末喜の様な心もその厚い地布のかげにはひそんで何十年の昔から死に変り生きかわりした美くしい男女の夢から生れた様なあでやかさばかりを輝かせて育った娘の名はお龍と云う。十五六の頃からチラッと心の底に怪しい光りもののあるのを親達は見つけた。その光りものの大きくなった時に起る事も親達は想像する事が出来た。娘の心の中にすむ光りもののささやかに物凄いキラメキを見るにつけて年とった二親は自分達の若い時の事を考えさせられた。母親は十八の時親にそむき家をすててしょうばいがたきのここの家の今の主人の前にその体をなげ出した。自分の生れた家の「時」と云う恐ろしい力づよいものにおさえつけられて段々とのれんのかたむくのを思う男の店の日にまし栄えて行くのと見くらべて白い歯を出して笑った事等が新しい事の様に目前にくりひろげられた。「私達はこれから仇うちをされるんだ」二人は老いて骨ばった手をにぎってこんな事を思った。
 お龍の心に住む光りもののひろがる毎にその美くしさはまして昔から話にある様な美くしさと気持を持って居るのを知ったのは二親きりではなかった。いきな模様の裾長い着物に好きでかつら下地にばかり結って居た様子はそのお白粉気のないすき通るほどの白さと重そうに好い髪とで店の若いものがせめてとなりの娘だったら附文位はされようものと云ったほどの、美くしさをもって居た。
 十六の時自分の名がお柳と書くのをいやがってどうでも「お龍」とかく様にしろとせびっていろいろ面倒な手つづきまでさせてお龍と書く様にしてもらった。しおらしくみどりの糸をたれる柳、まして三十三間堂のお柳と同じ名で自分の心とはまるであべこべだと云っていやがったのだ。
「女は柔しい名の方がどれだけいいんだか……
 私の若い頃は名のあんまりすごい女はいやがられたもんだ……」
 母親が娘の苦情をきいた半に斯う云った。
「ソウ、咲くかと思えばじきにしぼんで散ってしまう花――じきにとしよりになる様なお花なんて名がいいんでしょうか。でも、わたしゃお龍がすきなんだもの。龍があの黒雲にのって口をかっとひらいて火をふく所なんかはたまらなくいいけどもマアただの蛇がまっさおにうろこを光らして口から赤い舌をペロリペロリと出す事なんかもあたしゃだいすきさ、いいネエ……」
 そのすごく光る目をあこがれる様に見はってお龍は斯う云って母親が顔色を青くしたのをまっくろな目のすみから見て居た。

 十月号の『文芸』に発表されている深田久彌氏の小説「強者連盟」には、様々の人物が輪舞的に登場しているが、なかに、高等学校の生徒で梅雄と云う青年が描かれている。
 この小説で、作者はおそらく作品の小さくて破綻のない気分の磨き上げなどというところを目ざさず、大きくダイナミックに動いて作品として勇気のある不統一ならばそれが生じることを敢ておそれぬ心がまえであったのだろう。描こうとする現実と平行に走っているような筆致と、現実に真直うちあたって行って描写している部分とが二様にまじりあってこの作品の中に際だっている。松下夫妻の故郷で行われる祝典のいきさつ、それに加わる松下夫婦の生活を語っている部分などは、作者が対象と平行して走り、或は歩きつつその光景を読者に話しているやり方であり、この作品の中で芸術的には弱い部分をなしている。
 ところが、梅雄について描く場合、作者は対象に面と向って、或は対象の内部へまでくぐり入って描き出しており、本屋での場面のような鋭い情景として内容のこもった立体性を捕えている。私は、この作で作者が自身のスタイルを試しているようなのが面白かった。流行の説話体というものは、或る独特な作家的稟質にとってだけ、真にそのひとの云おうとすることを云わしめるもので、多くの他の気質の作家にとっては、必要でもない身のくねりや、言葉の誇張された抑揚や聴きてを退屈させない芸当やらを教え込むもので、意味をなさぬ。深田氏は、くねくね式説話には向かぬ天質の人に生れているのではなかろうか。やっぱり正面から当るたちではなかろうか。深田氏はこの作を書き終ることで、その点をどう考え、作家としての自己をどう発見しておられるか。私はそれらのことを、考えるのである。
 ところで、作中の梅雄が学生運動の最も盛んであった時期に経験した内的成長の過程を語る部分に、次のようなところがある。